山田せつ子&倉田翠ダンス公演

シロヤギ ト クロヤギ ト

——遺言ではないにしても 弔辞ではないにしても

ふわふわとした足元に跳ね返されたり 踏み落ちたり
互いの変化を微妙に感じながらその日に備えていますが
それはとても恐ろしいことに思えます
十五年前から折に触れ 向かい合わざるを得なかったのはどうしてなのか
京都初演から数ヶ月 ここにあるカラダと言葉を睨みながら その先を見つけ出します

山田せつ子

『遺言 ではないにしても』 山田せつ子 『弔辞 ではないにしても』 倉田翠

メッセージ

あごうさとし
メッセージ

冒頭、ゴルトベルク変奏曲が流れていたように記憶している。
記憶は違えているかもしれないが、私にはこの音楽の中に2人の踊りが再生される。
2人のダンサーの半生あるいは人生が紡がれる。
重ねられる、呼応する、いずれの表現も当てはめられないように感じるが、そこには2人の身体があり、それぞれの時間が立ち上がる。時の流れそのものを踊っているように思えた。時の流れは、悲しみそのもののようにも思えるが、これほどの静かな衝撃。他に経験し難いほどの濃密な、この作品でしか語り得ない。ぜひ劇場で見てほしい。その席はあまり数がないだろうけど、それは本当に貴重な時間になると思う。

あごうさとし
(劇作家・演出家・THEATRE E9 KYOTO芸術監督)

星野 太
『思考の発生』

 ふつう、思考とは何事かについての能動的な行為であると、私たちは思いなしている。しかし、それは思考の「内容」については言えても、おそらく思考の「経験」については言えない。より正確に言いなおせば、それは思考の「発生」については当てはまらない。思考が発生するとき──それは、暴力的なものの侵入によって私たちの「習慣」が停止するときである。
 ヒュームが「習慣」と名づけたものの生成を「受動的総合」と呼び、そのような総合に対する「強制」や「侵入」によってこそ私たちは思考すると考えたのは、ドゥルーズの『差異と反復』(1968)だった。
「人間は実際にはめったに思考せず、たとえ思考するとしても、それは意欲の高まりによってであるというよりは、ある一撃によってそうするということ、それは「誰もが」よく知っていることである(« Tout le monde » sait bien qu’en fait les hommes pensent rarement, et plutôt sous le coup d’un choc que dans l’élan d’un goût)」。
 この直前で、ドゥルーズがこれを「事実上(en fait)」の問題だとことわっているのは、厳密に受け取らねばならない。なぜなら、これはまったく観念的な話ではなく、あくまで私たちの経験の位相の話だからである。外からの「一撃(coup d’un choc)」がなければ、私たちはいかなる思考も始めることはない。思考する必要がないからだ。ふだん、私たちはそうしてぼんやりと習慣を形成し、周囲に充満する差異に煩わされない生活を送る。しかし、ひとたびそこに何らかの「強制」や「侵入」が生じるやいなや、そこには何らかの思考の必要性が生じることになる。
 思考の発生は、こうした外部からの「強制」や「侵入」に対する「態勢(disposition)」の獲得と深く結びついている。もしも、思考が能動的でなく受動的な経験であるのなら、より多くの思考——という言い方が適切かどうかわからないが——は、外部からの「強制」や「侵入」をより多く受け入れる多孔的な精神と身体を通じて到来するはずだ。そして、これもまた決して観念的な問題ではなく、あくまでも私たち一人ひとりの経験に属する事柄である。

「2mm浮いて」

 山田せつ子さんのワークショップでは、そのような「経験」が休みなく生じる。せつ子さんのひとつひとつの言葉が、所作が、外部からの「一撃」として習慣の形成を破壊する。そして、習慣が破壊されるそのたびごとに、「私」のなかにひとつの思考が生じるのだ。その「一撃」はいつもあまりに効果的であるがゆえに、実際そこで「何を」言われ、そこで「どのような」動きが生じたのか、その具体的な場面を思い出すことはほとんどできない。さながら精神分析における「セッション」のように、そこでは事後的な効果だけがあり、そこに至るまでのプロセスはおのずと消え去るかのようだ(ちなみに「2mm浮いて」という言葉は、せつ子さんが指導の合間に用いたひとつの喩えであり、実際の「セッション」のなかで発せられたものではない)。
 そこで生じた思考は、「私」の言語を、身体を、新たに編成しなおしてやまない。ひとつの習慣が壊れ、それに次いでまた新たな習慣が形成される──その繰り返し。それはきわめて知的なプロセスである。言葉によって身体を、身体によって言葉を組み替えるというそのダイナミズムこそが、おそらく「踊り」の核心なのだということを、私はせつ子さんのワークショップを通じて学んだ。
 むろんこれは、「表現」としてのダンスの手前にある事柄である。ゆえに、おそらく踊りを生業とする人にとって、ここまで私が書いてきたようなことは、ごく当たり前のことを言っているにすぎないと思われるだろう。ここであえて強調しておくことがあるとするなら、「表現」としてのそれを見る私たちが、その背後にある「思考」の発生をしばしば見落としがちだということである。ダンサーの身体もまた──それがひとつの身体である以上──外からの「一撃」によっておのれの習慣を破壊し、いくつもの態勢を獲得してきたはずなのだ。私たちが舞台のうえに見ているのは、その思考がぎゅっと抽出された結果としての運動なのである。

星野 太
(東京大学大学院総合文化研究科准教授)

公演概要

日程

本公演での当日券の販売は行いません。ご了承願います。

会場

神楽坂セッションハウス
(東京都新宿区矢来町158)

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対話

京都公演までのやりとり
京都公演までのやりとり

京都公演概要

山田せつ子&倉田翠ダンス公演
『シロヤギ ト クロヤギ』

日程:2021年11月26日 - 28日
会場:THEATRE E9 KYOTO

昨年のコロナ下で会って稽古が出来ない時間、(2020年)11月のワークインプログレス『そして なるほど ここにいる』に至るまで、私達はメッセンジャーや、メールや、電話で小さな画面を覗いたりしながら沢山のやりとりをして遠距離稽古をして来ました。
コロナの状況無かったら持たなかった時間とも言えます。
迷走も納得も混ぜこぜの時間でした。
そして、公演が延期になったこの1年更に続き面白い時間となりました。
それらは恐らく作品というものになって行くのでしょうが、
本番までのあと2ヶ月弱、更に続けているこのやり取りを少しここに公開していこうと思います。
どんな対話が生まれるか、興味を持っていただける方覗いてください。
随時更新して行きます。更新は、FBなどでもお知らせします。

山田せつ子 倉田翠

始まりの始まり〜
翠ちゃんの作品は忘れていても、時々ムズムズと動き出して、私が奥の方に飼っていた生き物に頭を出させてしまう。
それはどんな生き物だったか全体を思い出そうとする。
靄がかかっているわけではないけれど、まだらに浮き沈みして動く生き物。
あまりに遠い記憶なのに、昨日の記憶でもある。
そうこうするうちに50年も前の白茶けた手紙が届いた。
クチャクチャになった手紙を読みたくて、手紙を書くが返事はない。
仕方がないのでクロヤギに手紙を書く。

シロヤギから届いた手紙を読まずに食べた三年後、クロヤギ はひどく後悔し胃の中のものを全て吐き出してつなぎ合わせる。白紙。 すみません、もう一回書いてもらえないですか。読まずに食べた手紙のことをそれとなく切り出す。ヤギたち。

「シロヤギとクロヤギ」の場合、手紙のこと言わなくても、食べちゃうからお互い読めずに出し続けている手紙のことがイメージされます。 「食べてしまった手紙のことをもう15年も言い出せずにいる」の場合は、逆ですね。ヤギやな、とイメージされます。ヤギの歌の日本人への普及によって。

長い間どうしてもわからないことがある。読む前に食べるんだから仕方がない。
ちょっと我慢したらいいことを、2人ともついつい食べてしまう。
手紙は長い時間をかけて彼女たちの血になり肉になり、なんとなく、
こういう内容だったんじゃないか、と想像することができるようになる。
それはイメージに過ぎない。
ただ、もう「私」になっている。
そして私は、読んでもない手紙について、あーだこーだと言う。

ふむ、クロヤギさん。
シロヤギさんは何故ダンス的だったり、
演劇的だったり、行為的だったりと、
体の置き方、意識の置き方を変えるのでしょうか。
捕まえられないようにしているのでしょうか。
では、誰に、何に捕まえられないようにするのでしょうか。
草むらは、果てどもなく広がっています。
ウザいときは、読まずに食べてください。

早々に、ダンスの中にはないわ、と気付く。(諦める)
ダンスを、心から信じて、疑うことなく踊るダンサーを見ると羨ましかった。
ダンスをしていると、まるで私が「私のフリをしている」ように感じていて、
なので、ダンス以外のことをやるようになる。
それは、他者と共に、ただ生きるということで、なんとも難しかった。
それでもダンスをやめることなく、しつこく持ち続けていると、
繋がっているポイントが見つかってくる。
「今」
ものすごく悔しいことがあって、それを我慢しているときに噛み締めている奥歯のテンションに、解決できない悲しみからなかなか抜け出すことができないときの身体の脱力感に、イライラして悪態を付きたくなるような時間に、私はダンスができる瞬間のようなものを発見する。

あなたは誰ですかと、私が聞いたらしい。
いや、確かに、聞いた。
あなたは誰ですか。
何故、私はそんな質問をしたのだろう。
切羽詰まっていたのかな、私。
自分は誰なのか、考えて欲しかったのだろうか。
自分は何者なのか、見つけて欲しかったのだろうか。
どれも違う気がする。
誰も薄い皮膜で、生きている世界と当然のように繋がっている、
その薄い皮膜をみんなが持っている。
この世界は、それを持っていなくては生きていかれない。
けれど、その皮膜を疑わなければ、もうひとつの世界は覗けない。
残酷な意識なのだ。イライラしたのだな、私。
その皮膜に気づかないまま、何かをしようとしているからだに。
自分に似てそこにあるこのからだに。
この皮膜は、常に更新される。
途方に暮れて、歩く、彷徨う、座る、待つ。
うすく、うすーく積もって行きながら、ときに剥がれて行く。

ワークインプログレス
(2020年11月/THEATRE E9 KYOTO)

皮膜がペラペラめくれてくる。あーだめだめ、とペタペタ身体に貼り直しているうちに、貼ってるこれ、なんだったっけ?と、さっきまで私の身体に、あたかも私であるようについていたはずのものが疑わしくなる。
皮膜が自分のものではないかもしれないと思うと、中心に進むしかない。
置いてきた身体がある。
仕方がない、思考するのに精一杯で、一緒に引きずって歩くには私の身体は重すぎた。
皮膜が剥がれた部分から中を覗く。
人の形をした黒い影のようなものがうようよしている。小さな子供だったり、痩せっぽっちだったり、私に似ていたりする。
一人ずつ、「あなたは私でしたか?」と聞く。
それらは返事をしない。
動いて試してみなさいと。

カカトを上げる 耳をそらす 鼻を縮める 喉をまわす 鎖骨を入れ替える
あ、失った三分の二の胃袋がピチャピチャ言う
左足静脈がスッと引き抜かれて街を彷徨う
戻って甲状腺を散歩する
足裏は随分隆起した丘が生まれ、地図は書き換えられる
バラバラに走り出す からだ

鈍感さと敏感さを兼ね備えており、その鈍感さったらひどい。
座っていると椅子が痛い、転がると床が痛い、歩いていると風が強い、気温が私に対してあまりにも寒い、そういう外部との接触部分のピリつきまで忘れてしまって、まるで平気で私は外と付き合えている気になっている。なんなら「上手」とも思っている。
上手い風クッションが、大丈夫あなたは十分に健康で、上手くやれてますよ、と言う。

ワークインプログレス
(2020年11月/THEATRE E9 KYOTO)

翠ちゃんはよく泣く。15年前から同じ。いつ泣き出すかわからない。始めは驚いたけれど慣れた。呆れるようになった。けれど、時に私は途方にくれる。 途方にくれながら踊るとなんか良いダンスが生まれたりする。
力の持って行き場がなくなって、風が吹く。足元が彷徨う。

ズーム中とかに描いてる意味のない落書きって、改めて描こうと思ったって描けない。
思考と分離して、手先が描いてる。意味不明。何描いてんだ、と後から笑ってしまう。
ダンスがこのような感じにあればいいのにな、とは、たまに思う。

稽古で、即興で踊っている時とそれは似てるかな。
ダンスは後から見えないから、笑ってしまえないけど。あ、映像では見れるか。
お皿を拭いている手が、ダンスしている手と似ているそうな。どっちが先かな。
行ったり、来たりだな。次はお皿しまう手を泳がせてみる。

「別に泣きたいわけじゃないんですけど」と言って、すぐ泣く。「泣かないの!」と叱られる。
そしてまた泣く。急に泣く。
もう叱ってくる人などほとんどいなくなって、私はかつてほどは泣かなくなった。
私は喋ろうとすると泣いてしまう子だった。
私のダンスはたぶん、ずっと泣いてるんだな。何が悲しいのかは、全くわからないです。

人の傷の痕跡を撫でる。人の傷の痕跡を撫でる。
記録が記憶を連れて来てからだが爪先だつ、
つんのめる。パタパタ パタパタ と撫でる。
井戸の水が底で揺れるのを見るように覗く。
人と踊るって、ふーむ。ダンスが通りすぎていく。
いずれ形に治る前の振動が人と一緒だと遠慮がちになる。ソロばかり踊って来たからかな。

倉田翠『今あなたが私と指差した方向の行く先を探すこと』展(2010年)

からだが言葉を連れて来る。踊るように書く。
リズムやニュアンスや、ためらう感情が言葉になる。
だから、説明出来ない言葉が渦になって言葉を呼びだす。
気がつくと、重なった言葉に意味が生まれてくる。
楽しい。楽しそうなダンス踊れないのに、楽しい。

寒い、眠い、痛い、怖い、転ぶ、血が出る、治る、また転ぶ、悲しい、うるさい

「私はまだダンスが楽しくはないです。」

ただ時々、私ではない私が勝手に笑ったり動き出したりする。
それを、へー楽しそうですねぇ、と見ている。
見ている私は誰ですか?
それで?その後は?

言葉が重なって意味が重くなって息を吐く
そろそろ沈黙の中に落ちていく
絶句で生まれる形に会いに行く
タンタンリロリロサーア
体が韻を踏む
逃げろ
待っているものはあるのかな
きっと会いますよ

2022/5/26山田せつ子
2022/5/26山田せつ子

昨年11月末、THEATRE E9 KYOTOで上演した『シロヤギ ト クロヤギ』を、東京の神楽坂セッションハウスで再演することにしました。
京都公演でも、ウェブサイトで私と倉田さんの言葉の交換を公開してきましたが、今回もあと2ヶ月の間このサイトで私達が作品を作るプロセスで直面すること、生まれてくる言葉を書いて行きたいと思います。
再演ではありますが、今回のタイトルは『シロヤギ ト クロヤギ ト』です。
どこに繋がっていくのか、細く繋がる糸の先を見つめて行きたいと思います。
昨年は、私が17歳の時に出会ったベトナム戦争の記録写真を舞台で使いました。
それは、長い間の宿題と向かいあった思いです。
それに倉田さんが深い応答をしてくれました。
そのことが、とても腑に落ちたのです。
ところが今年になって、まさかと思う戦争の映像が日常の中に毎日やって来ます。
こういうことなんだ、過去とか記憶とか思いとか一瞬で瓦礫のように晒されるんだな。
私は途方に暮れるような気持ちに襲われました。
生きている日々と舞台との距離の正しい残酷さに、からだが大きなシーツで覆われたような気持ちになりました。

昨日、若い友人が殺虫剤をかけて殺されそうになった子猫を救出して、我が家に避難して来ました。我が家は時々猫の避難所になります。
幸い、体を洗って子猫は元気になりました。危機一髪でした。
私達のダンスを観に来てくださる方に危機一髪の人はいるのだろうか。
さて、まず、足の裏をどこにおろすことから始められだろうか。
続きます。

2022/5/26倉田翠
2022/5/26倉田翠

初演から約8ヶ月が経ち、再びせつ子さんと舞台上で出会う。
私たちは、振りを思い出して段取りを確認して、みたいなことで再現できるようなことをダンスとはしていないので、8ヶ月分年をとり、またちょっとだけ死ぬのに近付いた私たちが、どうも〜、そちら今どんな感じですか〜?と、ダンスをし始めるのでしょう。

私がこの間何を見ていたか、少しだけ書きます。

しょんぼりしたりすると、大好きなミスタードーナッツに行く。たくさんのドーナツの中からたった一つだけを選び抜き、カフェオレと一緒に食べる。考え事をしたり反省したりしな がら食べる。私とドーナツだけの時間である。
「はぁー!ほんまムカつく!ムカつく!」と斜め前の席から悪態をつく声が聞こえる。顔を上げチラッと目をやると、オールバックに細い眉毛、腕にジャラジャラ数珠を付けた白竜みたいなおじさんが、ものすごい剣幕で怒っている。ビクッとする。まさか私に怒ってるんじゃないよね?などと思う。再びチラッと目をやると、どうやら携帯電話を見ながらその向こう側にいる相手、もしくは何かに怒っているようである。「いやだなぁ」と私は思う。しかしはたと気がつく。彼は、怒りながらドーナツを食べている。しかも新商品である。(私もそれ選んだよ!)さらには、それはただのドーナツではなく、黒蜜シロップを後から自分でかけるスタイルのドーナツである。それほど怒りをあらわにしながら、シロップをかけてドーナツを食べたんだ!
おじさんは相変わらず怒り散らしているが、私はだんだん微笑ましい気持ちになる。人が持っている不思議な能力。葬式の後の宴会で大人たちが酒を飲んで大笑いしているのを不思議に思ったように、人の感情や行動はいつだって不可解である。でもこの、怒り狂っていても新商品のドーナツは食べたい、というようなズレは、人が生きていくために必要なバランス感覚なんじゃないだろうか。私はおじさんに希望を見る。最初は嫌だったおじさんに対して、感動まで覚える。しばらくその日のことを思い出してクスクス笑う。(おじさんは最後まで怒っていた)

私はそのようなものを見て、毎日生きてる。世の中が大きく変わっても、どんなに時が経っても、激しく怒っていても、よかった、まだ、ドーナツは食べてる。
ドーナツ屋にいる人がみんな陽気な訳じゃないのだ。現に私も、新商品のドーナツに黒蜜をかけながら、昨日のことを深く反省している。

2022/6/21倉田翠
倉田翠

献血について

人から、趣味はなんですか?とか、時間がある時は何をしてるんですか?とか尋ねられると、最近は「献血です」と言うようにしている。長らく「何もないです」と答えていたが、それもなんだかなと思い、探し出した私の趣味である。
「仕事・職業としてではなく個人が楽しみとしてしていること」要するにお金にならずとも時間がかかっても積極的にしたい何か、だとすると、献血に対する私の積極性はすごい。
例えば東京から京都に帰ってきて、ふぅ、と一息つく。明日は献血に行こう、とまず一番に思う。(献血はいつでもできるわけではないので、できる条件にあれば)
えっ、趣味やん!と思う。

なぜ献血が趣味なのか。一度ちゃんと考えてみようと思い立った。
まず、手っ取り早く、はっきりと、誰かの為になっていると思える。それは、アンパンマンが自身の顔をちぎって弱っている民衆に食べさせて元気にする、みたいな、自分の身を切ってでも弱き者の為に行動するというわかりやすいヒーロー性への憧れかと思う。
普段そんなことを人にしていたら、偽善者だと思われたり、何か見返りを求めているように思われたり、または、ご遠慮されたりするかと思う。

献血の何が良いって、血液を受け取る人が誰かなど、一切わからないところである。
しかし人は、多少なりとも自分の行動が相手に喜ばれたり、それが役に立っていると感じたりしたいものなのではないか。アンパンマンかて、「ちょっと餡子嫌いやしいいですわ」と言われたり、本当はいらないのに善意として渋々受け取ってくれてたりしたら、残念ではないか。

献血には、献血のお姉さんがいる。めっちゃ優しい。私は常連なので、顔馴染みである。彼女らは、感謝の気持ちをその優しさを持って体現してくれている。血液を受け取られる方の代弁者である。(いや、わからないが)寒くないかと毛布を掛けてくださったり、ちょっとした雑談をしにきてくださったり、私が寝こけているときはそっとしておいてくれる。
私はそれらの時間で「アンパン美味しかった!元気が出たよ!ありがとう!」と言ってもらっている気になっているのではないかと思う。

あと、もう少し具体的なことを言うと、足すより引く方が好きなタイプではある。何かを体内に入れるよりは、出したいという欲がある。
また、「病気」に対する幼少期の憧れ。「我慢」に対する美学。
病院に行きたかった。が、病気などまだ全然しないし、なかなか病院には行けない。かと言って、ちょっとした風邪や怪我なら行きたいとも思わない。病院に行くにはもっと壮大な理由がいると思っている。
献血ルームは病院の匂いがする。注射の針が刺さるのをじっと見ている。針を刺してもらえることなんてそうそうないから、その瞬間、または身体に針が刺さり続けている時間、ある憧れの中にいるような気持ちになる。

考え出すとまだまだあるが、もういいや、ここまで考えて、どれがはっきりとした私の個人的楽しみになっている理由なのか、全然わからない。

例えばサーフィンやゴルフであっても、板に乗って波が来たらそれに乗っかる、小さな球を棒で遠くまで飛ばす、穴ぽこに入れる、それが何で好きかなんて、よくわからないと思うんですね。 舞台を観ること、映画を見ること、読書、スポーツ、園芸、様々な趣味があるかと思うんですが、仕事や生活など、生きるために絶対的に必要なこととして課されているものから開放された、とても個人的な、ある意味では不必要である何か。不必要なのにやっていることって、私は何か信用できる。とても人間らしい。

理由は色々あれど、何故こんなに献血が好きなのか、やはりさっぱりわからないです。
生活から離れ、さっぱりわからないことの中に、ただ身を置きたいのかもしれない。

最近、3回続けて血の濃さが足りず献血できなかった。非常にしょんぼりしている。来週は抜けるかな、、などと、まるで雨でゴルフが中止になったおじさんのように、次の機会を楽しみにしている。

2022/6/24山田せつ子
2022/6/24山田せつ子

そうですね。『遺言ではないにしても』と、書いてしまった私は、今、言葉が遠くにあって、ヌヌヌ〜、クククククとか句読点のない音の時間が途切れることなく、溶けかかった飴のように現れては、消えていっています。
カラダが浮くような感覚に落ちます。子供の頃、足が着かないプールでうわうわした時のものに近いでしょうか。
あの動きは、やっぱり左手の仕業か、いやいや仕掛けたのは右足の小指だろうが。
京都で作った作品は、過ぎる日々の中、薄く染み出したり、濃くなったりしていってしまうので、一度作品として出したものも、あそことここがズレたり、重なったりしてそれぞれ喋り出してくるのです。そのまえでまたウロウロします。
ただ、再演の有り難さは、うっすらと地図があることです。
時々、耳の中がシーンとして、揺れていた音スーとが消えていきます。
明日の朝、私の耳が聴くのはどんな音。

2022/6/28倉田翠
2022/6/28倉田翠

そうして、頭で色々考えることをしています。そしてそれをなるべくそのまま文字にしたいと思っています。
その行程で、言葉が先に用意されていて、それに私を当てはめて行くような気持ちになってきます。仕方がないことですが、言葉の限界に突き当たった時に「わからない」という言葉に収めたり、なるべく近い言葉を探したりする。

稽古場で一人、動く動機も見当たらずどうしようもなくただひたすらに身体を動かしていると、もう悲しくて悲しくて、突然にわーっと涙が出たりします。「もう悲しくて悲しくて」と書きましたけど、これ、悲しいんでしょうか。泣いてるからこれは、「悲しい」んだろうと決めているだけで、本当は全然そうじゃない、だって今私踊ってるんやもん。
別に、ただ泣いているということがあってもいい。ここからはダンスの時間なので、黙ります。

2022/6/28山田せつ子
2022/6/28山田せつ子

2020年11月、京都のワークイン・プログレスは、作品への態度と、そこから始まり直感だけを頼りに歩き始めた私達を観てもらった。
思いがけなく互いの野蛮なところが現れて楽しかった。
素材はパイプ椅子、花1輪、紙、映像、紙粘土のオブジェ、パソコン、井上陽水〜
2021年11月、京都初演は思い詰めやすい私達らしく、突進するように作品に向かい、
お互いの謎が浮き上がって来たけれど、
ワークインの遊びが宙に浮いて降りる場所に事かいた。
素材は映像、白と黒のロングチュチュ、メガネ、冊子、インタ〜ナショナル〜
2022年6月、稽古の帰り道、私達の稽古場はキッチンみたいだなと思った。
3年目、料理が更に美味しくなるには何が必要か。
女二人が、レモンあったからこれどう?とか、この胡椒使えない?とか。
いやいや、量多すぎない?とか〜
味見しながら出来上がっていく、冷たい一皿や、湯気が上がるホックホックの一皿の前で、あれあれ〜いやいや〜なるほど〜
素材、大事だよね。あれ固すぎない?あっちの方がいいでしょ。
料理を人と一緒に創るの、面白い。ニヤリとしながら中央線に乗った。

プロフィール

山田せつ子Setsuko Yamada

ダンサー/コレオグラファー

笠井叡に即興舞踏を学び、1978年独立後、ソロダンスを中心にダンス活動をする。ダンスカンパニー枇杷系主宰。独自のダンス活動をしながら2000年〜2011年京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科教授、2021年まで同大学、舞台芸術研究センター主任研究員としてダンス、演劇の企画に携さわる。札幌で3年間のダンサー達との共同作業を終えたばかり。2019年度日本ダンスフォーラム大賞受賞。著書『速度ノ花』(五柳書院)。

倉田翠Midori Kurata

演出家/振付家/ダンサー

1987年三重県生まれ。京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科卒業。3歳よりクラシックバレエ、モダンバレエを始める。京都を中心に、主に舞台作品を制作。2016年より、倉田翠とテクニカルスタッフのみの団体、akakilike(アカキライク)の主宰を務め、アクターとスタッフが対等な立ち位置で作品に関わる事を目指し活動している。セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。